藤井風の大ヒット曲「帰ろう」が伝えたかった歌詞の本当の意味とは

歌と仏教

藤井風の大ヒット曲「帰ろう」ってどんな曲?

皆さん。藤井風さんが歌う「帰ろう」という曲をご存じですか。

Youtubeでの再生回数は1000万回を超え

多数のYoutuberがカバー動画を配信するなど

異例の大ヒットとなっています。

それではなぜ、この曲「帰ろう」が異例の大ヒットとなったのでしょうか。

それは最近の曲としては珍しく死生観についての歌詞に人々の心に深く刺さったからではないかと考えています。

日常を何気なく生きていると「死に方」について考えることはなかなかありません。

しかし「死生観」という字が表すとおり、「死に方」とは「どうやって生きてきたか」と切っては切り離せない関係にあるのです。

曲の歌詞をじっくり見ていくと、死んでゆく者の視点からと残される者からの視点の歌詞を織り交ぜながら、必ずある「死」というものに向かって私たちは「どうやって生きていくべきなのか」を優しく伝えてくれています。

藤井風さんはインタビューで老人ホーム等に公演会へ行く中で老人の方々と話し、この曲を作ったと仰っていました。

藤井風さんがもともと仏教を意識していたのか、印象に残った話をした老人の方々が仏教徒だったのかはわかりませんが

この歌詞は仏教をもとに作られていると断言できます

そしてその仏教のエッセンスは日本人の心にすぅーっと入り包んでくれるのです。

結果的に優しく温かい歌になってます。

仏教と聞くと「宗教でしょ」と思われる方も多くいるでしょう。

しかし仏教の原点であるブッダは仏を崇めろと言っておらず「苦しくない生き方」しか説いていないのです。

つまり仏教とは「今生きている人がどうやって生きてゆけばいいのか」を説いたものでしかありません。

宗教として身構える必要は全くないのです。

それでは「帰ろう」の歌詞を仏教の視点から見ていきましょう。

仏教の視点から読み解く「帰ろう」の歌詞の本当の意味(1番)

あなたは夕日に溶けて

わたしは夜明に消えて

もう二度と 交わらないのなら

それが運命だね

「わたし」は死にゆく者で「あなた」は残される者として歌詞は進んでいきます

生者と死者を夕日と夜明けで対比をしていますが、なぜ死にゆく者を「夜明」と表現したのでしょうか。

それは暗闇から日光が指す様子に意味があります。

仏教では煩悩に囚われ悟りえない(仏になれない)心の状態を「無明の闇」と言います。

そしてその無明の闇を光で照らすことを「悟る(仏に成る)」と言われているのです。

つまり「夜明に消えて」とは暗闇である夜から日光が「わたし」を照らそうとしている様子を仏に成ろうとしている「死にゆくわたし」側で表現したと言えるでしょう。

あなたは灯ともして

わたしは光もとめて

怖くはない 失うものなどない

最初から何も持ってない

ここでも闇を照らす光を「求めている」ことが表現されています。

つまり「わたし」はまだ仏になっていない(死んでいない)ことを指しています。

わたしの死は目の前に来ていますが「怖くはない。最初から何も持っていないから」と言っています。

これはどうゆう意味でしょうか。

仏教に「本来無一物」と言う言葉があります。

「もともと人は何も持たずに生まれてきた。

しかしそのことを忘れ人は多くのモノを持とうとする。

それが執着になり現世での苦しみを生むのです。

もともと何も持っていなかったことに気づけば地位や名誉、お金も命も本来失うものはない。」という考え方です。

だから怖くない。

持っていないもの失う怖れは無いのですから

それじゃ それじゃ またね

少年の瞳は汚れ

5時の鐘は鳴り響けど もう聞こえない

それじゃ それじゃ まるで

全部 終わったみたいだね

大間違い 先は長い 忘れないから

「それじゃまたね」という言葉に少年時代のお別れの描写と死にゆく今のお別れの描写を混ぜています。過去と今を織り交ぜた絶妙でエモーショナルな表現です。

死にゆく今は大人になり夕方5時のチャイムの音すら聞こえなくなってしまっています。

社会の喧騒の中で聞こえていないのか、老いた為に耳が遠くなり聞こえなくなったのか、複数の意味を含めているのでしょう。

死にゆくことは終わりのように感じられますが「わたし」はそれを大間違いであると言っています

なぜでしょうか。次の歌詞に行ってみましょう。

ああ 全て忘れて帰ろう

ああ 全て流して帰ろう

あの傷は疼けど この渇き癒えねど

もうどうでもいいの 吹き飛ばそう

さわやかな風と帰ろう

やさしく降る雨と帰ろう

憎みあいの果てに何が生まれるの

わたし、わたしが先に 忘れよう

1番目のサビです。

全て忘れて「帰ろう」と言っています。

どこにでしょうか

それは「さわやかな風」や「やさしく降る雨と」ともに帰るという表現から

私の「体」はもといた「自然」に帰っていくことを表しています。

これは仏教でいう「諸法無我」の世界でもあります。

諸法無我と世界の一部が私であり私は世界そのものであるという考えです。

人と自然を分けて考えてしまいがちですが人は自然です。

皆さんは赤ちゃんから大人になりました。たった3㎏から今では何十kgになっているわけです。

その体積はどこから与えてもらったものでしょうか。親からですか。

いいえ。自然からです

食べ物を食べて大きくなったのです。それでは食べ物はどうやってできたのでしょうか。雨が降り、土に栄養を与え、それを微生物が育み作物となります。そして風が種子を運び新たな芽となるのです。

つまり私たちは自然から与えられて生かされ、死ねば自然に帰ってゆくだけなのです。

今の日本では火葬という形式が取られているので、死後は煙となり空に舞い上がります。

その煙はさわやかな風に変わり、その煙は雲になり優しい雨へと変わるのです。

私が死んだら終わりであることを「大間違い」であると言った理由がここにあります

全て自然と共に循環し続けているのです。

仏教の視点から読み解く「帰ろう」の歌詞の本当の意味(2番)

あなたは弱音を吐いて

わたしは未練こぼして

最後くらい 神様でいさせて

だって これじゃ人間だ

残される「あなた」は弱音を吐いて死にゆく私に執着しています。失いたくないのです。

先を行く死にゆく「わたし」も未練をこぼし現世に執着しています。失いたくないのです。

仏教では執着を捨てること(無明の闇を光で照らすこと)で悟り、仏に成ります。

だからその執着を残している「あなた」と「わたし」は神様(仏)ではなく人間と言っているのでしょう。

わたしのいない世界を

上から眺めていても

何一つ 変わらず回るから

少し背中が軽くなった

この部分でわたしはどのような世界を見たのでしょうか。

それは全てが移ろいゆき進んでいく様子。それが回り循環している様子。

まさに仏教の「諸行無常」の世界です。

諸行無常と聞くと、なんだか切ないイメージを持たれる方もいますが

実は非常に心を軽くしてくれる考え方なのです。

「わたし」の背中が軽くなった理由です。

諸行無常とは「万物は流転し、変化と消滅が絶えないこと」です。

これは不可避の真理です。

お金も地位も名誉も健康も全ていずれは無くなります。

しかし一方で皆さんを苦しめている悲しみも怒りも悩みもそれすれもいずれは無くなるのです。

「わたし」が心配に思った「あなた」の横に「わたし」がいない世界もいずれは無くなり「あなた」も自然に帰るのです

イメージしてください。

少し楽になりませんか。

それじゃ それじゃ またね

国道沿い前で別れ

続く町の喧騒 後目に一人行く

ください ください ばっかで

何も あげられなかったね

生きてきた 意味なんか 分からないまま

これは生前の欲深い自分の様子を描写している歌詞でしょう。

「それじゃまたね」という言葉に毎日が当たり前に続くと思っている傲慢さを

「国道沿い」という言葉に現代の資本主義社会を

「町の喧騒」という言葉に人々の欲望がもたらす苦しみ、弱さ、醜さを

表現したのではないかと思います。

だからこそ「ください ください ばっかで」という卑しい言葉が続くのだと思います。

まとめれば「毎日が続くと思っているから資本主義社会で幸福になる手段とされているたくさんのモノが欲しい」と私は言っているのです。

でもこの歌詞の「わたし」は死ぬ間際になり違和感に気づくのです。

たくさんの「モノ」をもらったけど結局、生きてきた意味はなんだったのかと。

ああ 全て与えて帰ろう

ああ 何も持たずに帰ろう

与えられるものこそ 与えられたもの

ありがとう、って胸をはろう

待ってるからさ、もう帰ろう

幸せ絶えぬ場所、帰ろう

この曲のクライマックスと言えるでしょう。

ここに藤井風さんが伝えたった「死に方」そしてその先にある「生き方」が語られています

一つ前の歌詞で欲深く、たくさんのモノをもらった弱い「わたし」がいました。

しかし気づいたのです。

「わたし」はそれを与えることができます。それは誰かから与えてもらったからです。

今までの欲深く弱い自分に反省し苦しむのではなく、そんな欲深く弱い自分にさえ、たくさんのモノくれた皆に「ありがとう」と感謝をすればいいのです。

もらったモノに感謝をし、また自分も相手に見返りもなく与える。それを仏教では「布施(ふせ)」と言います。

お布施とはお金をあげること以外に「無財の7施」というものがあります。

  1. 眼施:慈しみの眼で相手をみる。
  2. 和顔施:和やかな顔で接する
  3. 愛語施:愛のある言葉を口にする
  4. 身施:身体を使い奉仕する
  5. 心施:自分以外の相手に心を配る。
  6. 床座施:座席や場所を譲る
  7. 房舎施:家や部屋を提供する

皆さんも誰かに与えてもらった経験があるのではないですか。

そして「わたし」の「魂」が帰る場所は「幸せ絶えぬ場所」です。仏教では浄土を「絶対の幸福の場所」として教えられています。まさに幸せが絶えない場所と言えるでしょう。

去り際の時に 何が持っていけるの

一つ一つ 荷物 手放そう

憎み合いの果てに何が生まれるの

わたし、わたしが先に 忘れよう

何かを一生懸命欲して、奪い手に入れたとしても死ぬ時には何も持っていけません。

誰かを憎んでも、その憎しみすらも持っていけません。

じゃあ捨てていきましょう。

きっとそれが現世への未練や執着に繋がるのですから。

持っているモノが多ければ多いほど死ぬ時に苦しくなるのです。

それは幸せな生き方だったと言えるのでしょうか

あぁ今日からどう生きてこう

さて皆さんはどう生きていきたいと思いましたか。

この曲を聞くと苦しみが減り優しい気持ちになりませんでしか。

皆さんも仏教用語である「慈悲」という言葉を聞いたことがあると思います。

慈とは=安楽を与えること

悲とは=苦しみを取り除くこと

慈悲とはつまり「苦しみを取り除き安楽を与えること」です。

そうです。この曲そのものが藤井風さんから皆さんへの慈悲の歌となっているのです。

歌としても歌詞構成としても完璧としか言いようがありません。。。

歌詞全文

あなたは夕日に溶けて

わたしは夜明に消えて

もう二度と 交わらないのなら

それが運命だね

あなたは灯ともして

わたしは光もとめて

怖くはない 失うものなどない

最初から何も持ってない

それじゃ それじゃ またね

少年の瞳は汚れ

5時の鐘は鳴り響けど もう聞こえない

それじゃ それじゃ まるで

全部 終わったみたいだね

大間違い 先は長い 忘れないから

ああ 全て忘れて帰ろう

ああ 全て流して帰ろう

あの傷は仏けど この渇き癒えねど

もうどうでもいいの 吹き飛ばそう

さわやかな風と帰ろう

やさしく降る雨と帰ろう

憎みあいの果てに何が生まれるの

わたし、わたしが先に 忘れよう

あなたは弱音を吐いて

わたしは未練こぼして

最後くらい 神様でいさせて

だって これじゃ人間だ

わたしのいない世界を

上から眺めていても

何一つ 変わらず回るから

少し背中が軽くなった

それじゃ それじゃ またね

国道沿い前で別れ

続く町の喧騒 後目に一人行く

ください ください ばっかで

何も あげられなかったね

生きてきた 意味なんか 分からないまま

ああ 全て与えて帰ろう

ああ 何も持たずに帰ろう

与えられるものこそ 与えられたもの

ありがとう、って胸をはろう

待ってるからさ、もう帰ろう

幸せ絶えぬ場所、帰ろう

去り際の時に 何が持っていけるの

一つ一つ 荷物 手放そう

憎み合いの果てに何が生まれるの

わたし、わたしが先に 忘れよう

あぁ今日からどう生きてこう

まとめ

  • 藤井風さんの大ヒット曲「帰ろう」は仏教の歌詞である。もし仏教を意識していないなら奇跡としか言いようのない歌詞構成。
  • 死に方を考えることはどうやって生きていくのか考えることになる。まさに仏に成るための生き方を問いたブッダの教え(仏教)の真髄そのもの。
  • 私の体は自然によって大きくなり火葬され自然に帰ります。つまり自然は私であり、私は自然である。(諸法無我)
  • 私がいない世界も変わりなく進んでゆく。(諸行無常)
  • 人はモノをもてば持つほど現世に未練を残し死が怖くなる。(本来無一物)
  • だからこそ持ってない人にあげていきましょう(布施・無財の7施)
  • 歌を聞くと皆さんの心の苦しみが減り安楽をもたらしてくれる(慈悲)

コメント

タイトルとURLをコピーしました