映画「8日目の蝉」を徹底考察。タイトルの意味と映画が伝えたかった親のあるべき姿とは

映画と仏教

はじめに

こんにちは。

皆さんは「8日目の蝉」という映画をご存じでしょうか。

直木賞作家である角田光代さんの小説をもとに永作博美・井上真央のWキャストで映画化されています。

そして2012年の日本アカデミー賞10冠を達成しました。

本日の記事は、この映画が何を伝えたかったのかを考察してみました。

ブログタイトルにあるとおり私はブッダが大好きですのでそのような視点(執着や愛欲、慈悲)から映画を考察しています。

ちなみにこの映画を見て誘拐された3歳の子供と自分の娘を重ねてしまい嗚咽を出しながら号泣しました。

送り火のシーン、写真館のシーン、最後の船乗り場のシーン

心が揺さぶられる場面ばかりでした。

物語としては誘拐犯と誘拐された子供と誘拐された両親のお話です。

サスペンス?

ミステリー?

いえいえ、私は「親の愛の話」だと思っています。

そう聞くと感動的な話なのかな?と想像する方もいますが一見ハッピーエンドには見えません。

この映画は後味の悪い映画にも前向きな映画にも視聴者によって変えることができてしまうのです。

なぜかって?

それがまさに映画タイトルに隠された「メッセージ」だからです。

「8日目の蝉」は実話を元に作られた物語

考察を始める前に、少し「8日目の蝉」というものを深堀させてもらいます。

小説をもとに映画化されているという話をさせてもらいましたが

その小説は作者が実際の事件にインスピレーションを受けて書いたものになります。

それはどのような事件だったのか。

頭もよく、成績優秀だったA子さんはある会社に就職しました。A子さんは男性と付き合ったことがありませんでしたが、その就職した会社でB男と出会い付き合い始めます。

しかし、B男には妻がいました。不倫だったのです。

そのなかでA子さんは妊娠しますがB男から下ろすよう言われ、仕方なく下ろします。

そしてさらに妊娠しますが、その時もB男に言われ下ろします。

不倫のことを知ったB男の妻がA子に何度も詰め寄ります。

電話も毎日のようにかけられ、なじられ続ける日々をA子は送っていました。

精神的に限界に近づいていたA子に対し、B男の妻から「あなたは子供を下せるような人なんでしょ」という言葉を言われ、A子の中で大切な何かが壊れてしまいました。

そして悲しい事件が起きます。

B男夫婦には子供が生まれており、A子と同じタイミングで妊娠した子供でした。

B男夫婦が不在の際に、子供が残されている自宅にA子は火を放ちます。

結果、幼い命が失われました。

A子は裁判の際に、子供を連れ去ろうかとも考えたと言います。

それは自分が下した子供の魂が同じ時期に生まれたB男と妻との間の子に宿っているのではないかと思ったからという理由でした。

これが実際の事件の話になります。

小説では、もし放火ではなく連れ去っていたらという世界線でのお話になります。

前置きで少し暗くなってしまいましたが、「8日目の蝉」が実際の事件の悲惨さを利用した商業的な物語ではないことを今から考察をもとにご説明したいと思います。

映画のストーリー概要(ネタばれ有り)

実話のお話をさせてもらいましたが、映画のストーリーに移りたいと思います。

映画ではA子の役が永作博美演じる「野々宮希和子」

B男が田中哲司演じる「秋山丈博」

B男の妻が森口瑤子演じる「秋山恵津子」

子供が井上真央演じる「秋山恵理菜(薫)」※希和子は子供を「薫」と名付けます。

物語のキーパーソンとなる小池栄子演じる「安藤千草」

誘拐されるまでは実話と同じような展開で物語は進んでいきます。

希和子は恵津子から不倫をしたことについて罵られ、希和子が丈博氏との間の子供を下したことを持ち出し「貴方のお腹は伽藍洞なの(何もないという意味)」と言ったことで希和子の大切な何かが壊れてしまいました。

そして希和子は秋山夫妻の赤ちゃんである恵理菜を誘拐します。希和子は赤ちゃんに「薫」と名付け、警察から見つからないように転々生活していきます。

友人の家、エンジェルホームという女性の駆け込み寺のような場所、そしてエンジェルホームで知り合った女性の故郷である小豆島。

この小豆島が希和子と恵理菜(薫)が一緒に暮らした最後の地となります。

映画では大学生になった恵理菜(薫)を視点に話は進んでいきます

大学生の恵理菜(薫)は親元を離れ居酒屋と倉庫の仕事をかけもちしながら親の援助も借りずに一人暮らしていました。

そこに過去の誘拐事件について取材をしたいという安藤千草が現れます。

恵里菜(薫)は最初、千草のことをあしらっていましたが悪意無く近づいてくる千草を受け入れる形で交流が始まります。

それと同時期に恵理菜(薫)は妊娠します。相手は妻子ある男性でした。誘拐犯である希和子と同じような立場での妊娠となったのです。

そして恵理菜(薫)は実家に戻り実母である恵津子に妊娠したこと、そして希和子のように相手の子供を誘拐しなくて良いように産むことを決めたと言います。

そう決意したものの誘拐犯に育てられ、そのあとの実母からも歪んだ愛情がそそがれていた自分が親になることができるのか不安な恵理菜(薫)でしたが、千草の勧めもあり希和子との思い出の地を巡っていくこととなります。

そして最後の地である小豆島で恵理菜(薫)は映画の中で初めて感情を爆発させ号泣し、私はお腹の子供を育てていくことができると笑顔になりました

そのシーンで余韻なく映画は終わりとなります。

恵理菜(薫)がなぜ号泣し笑顔になれたのか。

単純なハッピーエンドの感動ストーリーではありません。

涙と笑顔の理由を今から考察の中で語っていきたいと思います。

「8日目の蝉」というタイトルの意味とは

「8日目の蝉」のタイトルを見て皆さんはどのような意味だと思いましたか?

蝉は地上に出てから7日で死ぬと言われています。

つまり8日目の蝉は周りが7日で死んでいる中で自分だけが生き残っています。

8日目まで生きたことによって仲間がいない「寂しさを味わった」のでしょうか。

それとも8日目まで生きたからこそ「他の蝉が見られない何かを見られた」のでしょうか。

この前提を元に映画が伝えたかったことを考察していきます。

考察のために特に重要なシーンを抜粋

①恵理菜(薫)が実母の恵津子に対し不倫相手の子を身ごもったこと告げます。その時に恵津子は怒りながら泣き崩れます。その際のセリフの一つが「どうしたら(私は)恵理菜ちゃんに好きになってもらえるの」でした。

②警察の手が逃避先である小豆島まで近づいていることを察した希和子は焦りながら船乗り場に向かって幼い恵理菜(薫)を連れて走ります。

時間がない中で写真館に寄り「家族写真を撮ってください」と言い二人で写真をとります。その際に希和子は両手で恵理菜(薫)の手におまじないのように見えない何かを渡します。

それを受け取った恵理菜(薫は「な~に?」と聞き

その時に希和子が言ったセリフが「ママはもう何もいらない。薫が全部もっていって」でした。

写真を撮ったあとに船乗り場につきましたが既に警察が取り囲んでいました。

希和子は恵理菜(薫)を先に行かせます。そして希和子と恵理菜(薫)の両方は警察に確保されました。

その時に希和子は恵理菜(薫)を確保した警察官に向かって「その子はまだご飯を食べていません。どうかよろしくお願いします」と言いました。

③大人になった恵理菜(薫)は千草に連れられ小豆島に行きます。その時に最後に希和子と行った写真館であの時に撮った写真を見て希和子との記憶を思い出します。

そしてその勢いのまま船乗り場に走り号泣して笑いました。

今まで無表情だった恵理菜(薫)の感情が全て出たシーンになります。

「この島に戻りたかった。でもそんなこと考えちゃいけないと思っていた」

「(お腹にいる)この子に色んなものを見せてあげるんだ。何にも心配いらないよって教えてあげる。世界で一番好きだって何度も言うよ

 と言い映画は終わります。

書きながら思い出し泣きをしてしまいましたが、この3つのシーンにあるべき親の姿と「8日目の蝉」というタイトルにした理由が全て含まれています

「8日目の蝉」が教えてくれる親のあるべき姿と幸せになる生き方とは

1つめのシーン

恵里菜(薫)はなぜ実母の恵津子に対して距離を置いてしまっていたのか。

誘拐犯から子供が戻ってきたあと恵津子は懸命に子供に尽くしました。

しかし、恵里菜(薫)は高校を卒業すると同時に家を離れています。そして現在の恵理菜(薫)は両親に対しどこか距離をおくような生活をしていました。

なぜそのような関係になったのか。

それは母親が自分を「本当の意味で愛してくれていないこと」に無意識で感じていたからです。

恵津子が①のシーンで言った「恵理菜ちゃんに好かれたいの」というのは受け身です。母である私を愛してという欲求になります。つまり子供に向いているようで実は過剰な自己の愛欲(所有欲)でした。

それゆえに無意識的に子供である恵理菜(薫)の心の距離は離れていったのです。

2つめのシーン

偽りの親子の関係ではありましたが3年間育ててきました。その3年間で希和子は親になっていったのです。そして最後の最後で「親としての過ち」に気づいてしまったのです。

子供は自分のモノではない。

無償の愛を与える(つまり全てをあげる)ことこそが親の役目だと心が気づいたのです。

だからこそ、「全部もっていって」という与えるおまじないと「その子はご飯を食べていません」という子供の視点にたった慈しみある言葉がでてきたのでしょう。

最後に大人になった恵理菜(薫)はなぜ号泣して笑えたのか。

前を向くことができたのか。

それは彼女の中で「8日目の蝉」の意味が変わったからです。

幼い時に誘拐された3年間。実母のもとに戻れたが歪んだ愛情がそそがれた十数年間。そして誘拐犯の希和子と同じように不倫相手の子供を身ごもってしまった今。それを「不幸」な人生だと諦めていました。

つまり8日目まで生きた特殊な蝉として「悲しさを味わっていた」のです。

でも実は捉え方で「不幸ではない」ことに気づきます

幼い時に誘拐された3年間に誘拐犯でありながらも希和子の愛情がそそがれていたことを思い出しました。そして誘拐時の希和子と実母が「子供を自分のモノにしようとした」という過ちを経験したからこそ、親が子供にしてはいけないことと親が子供にすべきことを知ることができました。

つまり8日目まで生きた特殊な蝉だからこそ「他の蝉が見られないものを見た」と感じられたのです。

だからこそ最後のシーンで恵理菜(薫)は「この子に綺麗な色んなものを見せてあげたい」と子供の視点にたった慈しみあるセリフを言ったのです。

そして恵理菜(薫)が感情を出し号泣したのはやっと彼女自身が自分を受け入れられたからに他なりません。

誰しも自己否定ほど苦しいものはないものです。自己否定をしていたからこそ感情が死んでいたのです。

しかし事件を無いものにせず、本当の意味で事件はあったとしっかり受け入れることができました。

人は苦しいときに隠したり、逃避したり否定したりします。

しかし一番苦しくない方法はあるがままを受け入れることです。苦しみへの抵抗ではなく「自己受容」が救いの道になります。

そこからやっと本当の意味で始めることができるのです。

この先に恵理菜(薫)とお腹の子供が幸せな人生を送るのか、それとも不幸な人生を歩むのかはその二人自身が決めていくことになります。

8日目の蝉の気持ちを視聴者に投げられているシーンです。

はじめにの中で私が「後味の悪い映画にも後味の良い映画にもできる」と言ったのはこうゆうことです。

ちなみに私は「その後の二人は幸せな人生を歩むことができた」と信じています。

何故なら「自己受容」と「慈しむ大切さ」を既に恵理菜(薫)は知ることができたのですから。

つまり、この映画はハッピーエンドなのです。

まとめ

・映画「8日目の蝉」はあるべき親の愛が描かれている

・8日目の蝉の意味は、8日目まで生きたことによって仲間がいない「寂しさを味わった」とも8日目まで生きたからこそ「他の蝉が見られない何かを見られた」とも捉え方しだいで世界は不幸にも幸福にも変わるということ。

・子供は親のモノではない。親が子供にすべきことは見返り無く与えること。

・苦しいできごとをあるがままに受け入れ(自己受容し)、相手を慈しむことができれば、いつだってあなたの物語はハッピーエンドに変えることができる。

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