「命に嫌われている」という曲は救済ではなく、苦しみの共感。
みなさんこんにちは。
「命に嫌われている」という曲をご存知ですか。
カンザキイオリという方が2017年に作られたボーカロイド曲。
まふまふ氏という歌い手がカバーしたyoutubeの再生数は1億回を超えています。
2021年の紅白でも歌われたことから楽曲の知名度は更に上がったことでしょう。
今回、私がこの曲を記事に取り上げようと思ったのは
影響力をもつことになったこの歌が繊細な少年少女達にとっては
「救済の曲」と評されているからです。
しかし、私は救済の曲ではないと判断しています。
この曲を聴くことで苦しみを共感し、一時的には救われるのかもしれませんが
根本的な苦しみは取り除かれていません。
だからこそ曲を聴き終わったあとは気持ち良くなっても
時間がたてば目の前の人生は辛く苦しいままであることに気づき
そしてまた一時的な救いを求め、歌を聴くというサイクルになります。
主人子は今でも生きる答えを見つけることができず
苦しんでいるのではないかと思います。
それでは「命に嫌われている」私たちはどのように生きていけばよいのでしょうか。
ブッダの心の科学をもとに私の結論から言います。
「自分を大切にしようとするから、自分の命を嫌いになる。自分を大切にしてはいけない」
この曲に感動した繊細で心の豊な皆さんだからこそ
是非最後まで読んでいただければ幸いです。

タイトルの意味と歌詞の考察!
「命に嫌われている」という曲のタイトルはどのような意味をもっているのでしょうか。
これは私が命を嫌っているから、命のほうからも嫌われているという意味でしょう。
それを踏まえながら歌詞を考察していきましょう。
「死にたいなんて言うなよ。諦めないで生きろよ。」
そんな歌が正しいなんて馬鹿げてるよな。
実際自分は死んでもよくて
周りが死んだら悲しくて
「それが嫌だから」っていうエゴなんです。
主人公は「諦めないで生きろよ」という言葉は相手を心配しているのではなく、
自分が相手に死なれるのが嫌だから死なないでというエゴ(自我)でしょ。
という悩みから歌詞が始まります。
他人が生きてもどうでもよくて
誰かを嫌うこともファッションで
それでも「平和に生きよう」
なんて素敵なことでしょう
画面の先では誰かが死んで
それを嘆いて誰かが歌って
それに感化された少年がナイフをもって走った。
僕らは命に嫌われている。
価値観もエゴも押し付けていつも誰かを殺したい歌を
簡単に電波で流した。
僕らは命に嫌われている。
軽々しく死にたいだとか
軽々しく命を見てる僕らは命に嫌われている。
他人がどうなっても自分が幸せであればよいと思うエゴ(自我)があるから
ファッションのように簡単に嫌いながらも「平和に生きよう」と言えてしまう。
「なんて素敵なこと」と皮肉っています。
TVやニュースで流れた誰かのエゴ(自我)
それを歌い手が表現したエゴ(自我)
それに感化された少年のエゴ(自我)
エゴ(自我)がエゴ(自我)の連鎖を生み、最終的には少年が自分や他人を傷つけるようなエゴ(自我)を生み出した。
そのエゴ(自我)で自分の命を簡単に傷つける。
そのエゴ(自我)で相手の命を簡単に傷つける。
軽々しく命を見ている僕らには命のほうから願い下げ。「嫌われている」という意味でしょう。
お金がないので今日も一日中惰眠を謳歌する
生きる意味なんて見い出せず、
無駄を自覚して息をする。
「寂しい」なんて言葉でこの傷が表せていいものか
そんな意地ばかり抱え今日も一人ベッドに眠る
少年だった僕達はいつか青年に変わっていく。
年老いていつか枯れ葉のように誰にも知られず朽ちていく。
不死身な身体を手に入れて、一生死なずに生きていく。
そんなSFを妄想してる
生きる意味もわからずお金が無いならやるべきこともわからず寝るしかない。
もちろん寝ても無駄なことはわかっている。
そんなことを「寂しい」なんて言葉だけで表せるわけがないこともわかっている。
だけど、どうしていいかはわからないから妄想でもしながら寝るしかない。

自分が死んでもどうでもよくて
それでも周りに生きて欲しくて
矛盾を抱えて生きてくなんて怒られてしまう。
「正しいものは正しくいなさい。」
「死にたくないなら生きていなさい。」
悲しくなるならそれでもいいならずっと一人で笑えよ。
僕らは命に嫌われている。
幸福の意味すらわからず、生まれた環境ばかり憎んで
簡単に過去ばかり呪う。
僕らは命に嫌われている。
さよならばかりが好きすぎて本当の別れなど知らない
僕らは命に嫌われている。
主人公はどうしたら幸福になるかわからないと悩んでいます。
そんなどうして良いかわからず生きることは苦しい。
でもみんなには生きていてほしい。
そんな矛盾を言ったら怒られるよね。
だって正しいことが良いことだと教えられたから。
正しいはずなのに苦しいという悲しみは
一人で笑うしかないという狂気で誤魔化すしかない。
幸福も別れも愛情も友情も
滑稽な夢の戯れで、全部カネで買える代物。
明日死んでしまうかもしれない。
すべて無駄になるかもしれない。
朝も夜も春も秋も
変わらず誰かがどこかで死ぬ。
夢も明日も何もいらない。
君が生きていたならそれでいい。
そうだ。
本当はそういうことが歌いたい。
命に嫌われている。
結局いつかは死んでいく。
君だって僕だっていつかは枯れ葉のように朽ちていく。
それでも僕らは必死に生きて
命を必死に抱えて生きて
殺して あがいて 笑って 抱えて
生きて、生きて、生きて、
生きて、生きろ。
主人公はもう一度、生について考えます。
この世のものは金で買える代物ばかり。
そんなモノは一瞬で無くなる。
命だってたいしてかわらない。だって一瞬で無くなるじゃないか。
そんなことはわかっている。
それでも「生きていてほしい」この想いだけはやっぱり消えないんだよな。
じゃあそのエゴ(自我)を歌うしかないじゃないか。
俺も生きるからさ、みんなも生きろよ。
命に嫌われないためには僕らは何から始めたらよいか
歌詞をみればみるほど「苦しい叫び」を感じます。
しかし、今の日本社会ではこの叫びは当然のことなのです。
競争を基本とした資本主義社会。
色々な情報が溢れる情報社会。
このような苦しい叫びをもつ人間がたくさん生まれていることが
容易に想像がつきます。
無防備な裸の心にたくさんの槍が突き刺さっているようなものです。
その抜き方も避け方も知らない。
知っているのは一時的に気を紛らわしてくれる快楽だけ。
その癒しさえ追いつかないほど刺さり続ける槍。
その痛みは生きるのも嫌になるくらい苦しい。
でも周りは生きろと言ってくる。
苦しい。。。
つらかったですよね。
今から私が提案したいのはブッダが見つけた
「槍を抜く方法」と
「槍が刺さらない方法」です。
槍が刺さらない人生。
つまりは心の痛みが無い人生。
それこそ主人公が探し求めている「幸福」ではないでしょうか。

エゴ(自我)が生み出す「こころの苦しみ」
「命に嫌われている」ではエゴという言葉が多用されています。
エゴとは自我のことです。
自我が強ければ強い程、苦しみも強くなります。
より多くの槍が刺さるということです。
つまり「幸福」からは遠ざかります。
なぜ自我が強くなると苦しみが増すのでしょか。
少し違いますが自我をわかりやすく「欲望」とも言い換えてもよいでしょう。
人間は欲が満たされなければ苦しみを感じる生き物です。
歌詞の中の主人公がなぜ苦しんでいるかは一言で言えば
「欲望」が満たされてないからです。
そして満たされない数々の欲望が合わさり苦しみとなって表出されます。
主人公の満たされない欲望が何なのかは正確には読み解けませんが
歌詞から拾い集めると少しだけ浮かび上がってきます。
キーワードは「生きる。死にたい。寂しい、惰眠、過去、環境、友情、愛情、別れ」
大きく分ければ以下の3つの欲に集約されるでしょう。
- 承認欲
- 怠惰欲
- 生存欲
主人公の心の欲望を丸裸にして書き出せばこのような内容になるのではないでしょうか。
まずは承認欲です。これが一番強いでしょう。
「私のことを認めて欲しい。私と友人でいることを嬉しいと思ってほしい。私が愛しているということを喜んでほしいし見返りとして愛してほしい。そんな人じゃないなら一緒にいても満たされないから私が傷つくので別れて欲しい。私が悪いわけじゃないよ。私の環境も悪かったの。私は私のことが大好き。でもみんなが好いてくれない。そんなの寂しい。」
その満たされない欲が怠惰欲と生存欲が増大させていっています。
「認めてもらえず傷つくくらいならもう寝よう。寝ていたら傷つかないや。でも寝ていても満たされない。ああ外にてでも傷つくし、寝ていても満たされない。もう生きたくない。死にたい。でも死ぬのも怖いし、痛いし。ああ生きたい。」
この欲望は醜いと思いますか?
私はまったく思いません。
これは人間なら当然だからです。
当然に出てくる欲望であるにも関わらず向き合い方を知らない。
だからこそ満たされず、生きていること苦しくなり
ただ生きるだけのことなのに「生きるんだ!!」
というような覚悟を持たないと生きていけないおかしな事態となっているのです。
生きる苦しみが無くなる「無我」の教え。
このように人は生きるだけで欲求が次々に生まれてくるエゴイストなのです。
どんなに優しく生きようとしても
自然を殺し
微生物を殺し
生き物を殺し
生きているのです。
そしてさらなる欲求を満たそうと、お金を欲し、着飾り、
承認を欲しようと目的地を誤ったまま頑張るのです。
まずは自分自身がエゴイストであること
それが苦しみを生み出していることをしっかり認めることが大切になります。
そして、その心で他人を見てみて下さい。
強そうに見えている人でも自分と同じく心が弱い人であり
満たされないものを満たそうとして苦しんでいる様子がみられると思います。
あなたが嫌いなあの人も、あなたを傷つけたあの人も
苦しみを抱えてそれを満たそうとあなたを傷つけた弱いひとなのです。
この弱さとどう向き合っていったらよいのか。
それこそが私たちが考えるべきことではないでしょうか。
ブッダはこの苦しみが生まれる弱さの原理に気づいたのです。
そして「無我」を説きました。
エゴ(自我)が生み出す欲求を捨てていくことで、
エゴ(自我)を無くし無我に近づいていこうと説いたのです。
例えば「だれだれと友達になりたい。でも友達にしてもらえない」
という欲が生み出す苦しみがあったとします。
「だれだれと友達になりたい」という欲そのものを捨てるのです。
おのずと苦しみも無くなります。
シンプルですが力のいる作業です。
ひとつひとつの欲求を減らしていく先に「無我」があります。
「無我」になるとどうなるのか。
既に満たされているので他人にやさしくなります。
これが慈悲と言われているものです。
嬉しいことがあった日に他人に優しくした経験があるという人も多いのではないでしょうか。
実は人は満たされていると自動で他人に優しくする生き物でもあるのです。
その状態がずっと続くことこそ無我による慈悲の境地です。
歌詞の主人公が気づいていた「生きて」という気持ち。
それこそ無意識の慈悲に他なりません。
この曲に感動した皆さんも、無意識に慈悲のこころと共鳴していたのです。

自分を大切にしなければ「幸福」になる。
それでは最初にお伝えした結論を改めてみてみましょう。
「自分を大切にしようとするから、自分の命を嫌いになる。自分を大切にしてはいけない」
少し意味がわかったのではないしょうか。
自分で自分を傷つけるというような意味の
「自分を大切にしない」というものではではありません。
むしろ自分を大切にしてしまうからこそ
自分を傷つけてしまうというようなことが起きてしまうのです。
「自分を大切にすることが正しい」と教えられたからこそ苦しくなっていたのです。
自分を大切にしないということこそが主人公が探していた正しさではないでしょうか。
復習ですが自分を大切にしようとすればするほど自我が育ちます。
欲求も増えていくので満たされない苦しみも比例して増えていきます。
もし欲求を減らしていき、自分を大切にしようと思わなければどうなると思いますか?
満たされない苦しみが無くなっていくのです。
生きることも怖くない。
死ぬことも怖くない。
誰かに認められなくても怖くない。
愛されなくても怖くない。
もちろん寂しさも感じない。
なぜなら私は既に満たされているから。
それを「幸福」と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。
世の中で言われている「幸福」の大半が「快楽」です。
しかし、ブッダは絶対に違うと言いました。
快楽は新たな欲求(苦しみ)を生むだけだと言いました。
ブッダが言う幸福とは「安らいだ心」のことです
だからこそ私たちがすべきことは少しずつ欲望を減らしていくことです。
その作業こそ、槍を抜くこと。
そして槍が刺さらないようにすることに他なりません。
安らいだ人生を楽しんでみませんか。

まとめ
- 「命に嫌われている」という曲は救済ではなく、苦しみの共感。主人公は今でも悩んでいる
- タイトルは私が命を嫌っているから、命のほうからも嫌われているという意味
- 命を嫌ってしまう原因は無防備な裸の心にたくさんの槍が刺さり、生きるだけで苦しいから
- 主人公は槍を抜く作業と槍が刺さらない作業をしていくことで幸福を見つけることができる。
- 槍を抜く作業は自我(エゴ)が生み出す欲求が苦しみを生み出していることを認めること
- 槍が刺さらない作業は自我(エゴ)が生み出す欲求を減らしていき無我に近づくこと
- 苦しみを感じないという「安らいだ心」こそ主人公が追い求めた幸福。
- 「自分を大切にしようとするから、自分の命を嫌いになる。自分を大切にしてはいけない」
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